かぐや姫の物語鑑賞会

7月7日の日曜に、出張版クローゼットΔデルタとして、京橋URAにてかぐや姫の物語の鑑賞会を行いました。

 

鑑賞後、お茶会をひらき、視聴した人たち(合計5人(男3、女2))でこのアニメーションについて話し合いましたところ、複数の見方が出てきましたのでそれをそれぞれ簡単に残しておきます。

企画者は私(@rmarminor) と、むらた氏(@bigmuffkazoo21)

 

(私とむらた氏は過去に視聴済で、ほかの3人はみたことがないという状態で行いました)
(ちなみに私自身は4、5年まえに一度みたきりで、そのときに持った感想としては「あまり好きになれない」でした。なぜ好きでないと感じたのかよく思い出せなかったのですが、今回の鑑賞会で思い出すことができましたので、それものちほど書いていきます。)
 
※この記録はすでにかぐや姫の物語を視聴されたことのある方向けです。
あらすじや作品概要なども端折ります。

【夢物語であるところのかぐや姫の物語】

このアニメには理論だてて考えているだけでは説明のつかないところがいくつかあって、それに対してほんとうは理屈がきちんとあるんじゃないかと考える人もいれば、そもそもそういうものはなくて、「今」というものが過去であり走馬灯のようなものであり、同時に夢であるということが表出しているだけなんじゃないかという意見がありました。

物語られているなかで説明のつきにくい部分は、単に美しい夢物語のようなものであって、アニメーションのうつくしさでそれを一層引き立てているのではないか。精神分析でいうところの変性意識のようなものを表現として混ぜているのではないか、と。

たしかにかぐや姫の物語のテーマにもなっている曲の歌詞には「いまのすべては過去のすべて」という歌詞もあり、あながちこれは遠くない解釈なのかなと感じました。

【超能力少女であるところのかぐや姫の物語】

それにたいし、「案外、この話はすべてつじつまがあうように作られているとおもう」という意見もありました。かぐや姫が無意識的に願ったことは叶ってしまう。だが彼女自身もそれに振り回されており幸せになれない。

たとえば、そもそも翁にひろわれたこともかぐや姫の望みだったのではないか(ひとりきり子供の状態では育っていけないため)。また、いったんは願って叶うものの、飽きたり、もういいやとおもうと、叶った現実をリセットできる、時間リセットボタンがかぐや姫にはついているんじゃないか、という意見もありました。

【捨丸をどう捉えて消化していくか】

捨丸はオリジナルの竹取物語にも存在しない、高畑勲監督ならではのキャラクターです。捨丸の存在をどう捉えるか、で、物語の印象も変わるようにおもいました。

「捨丸との最後のシーンでは、奥さんもいて子供もいるところからの抱き合うシーンなので、これ不倫じゃないか。胸がざわざわする」という意見がありました。

(じつは私も個人的にこの意見は無視できないとおもっていて、数年前にみたときはこのシーンをどう受け入れたらいいのか、「捨て丸もきらいだしそんな捨丸を好きなかぐや姫もきらい(あれだけ男性を次々拒否しておいてなぜ捨丸のことは全肯定なのか)」、と、自分のなかで消化できなかったため深掘りすることを棚上げしていたことを思い出しました。)

それに対し、捨丸擁護派も存在。捨丸とかぐや姫の逢瀬は、心を通わせ抱き合うところまでするにもかかわらず、一切が夢であったかのような表現で処理がなされる。なぜか不倫のだいたいは同級生や元恋人らしいという話になり、これは一種のif、もしもドラマ的なものであり、誰もが心に捨丸を抱えているが、「なるだけ捨てていきましょうという意味での捨丸」……という意見も出ました。(「やれたかも委員会」的なもの?)

【仏教の規範、あるいは否定であるところのかぐや姫】

この物語自体が仏教の思想を下敷きにしているのではないかという意見がありました。たしかに姫を天に連れていく者の姿は仏の様相をしていました。また、感情が失せてこの世の輪廻からはずれた存在になるということ=解脱をあらわしているんじゃないか、と。

書いていて気づきましたが、最初にのべた夢物語ではないかという意見にも近い気がします。仏教では現世を夢まぼろしのたぐいだと考えるからです。

あとは先程の捨丸の件も、あきらかな不倫を暗示させる描写なので、現世におちて仏教で罪とされるものを順番に味わっていってる話なのかなとも思いました。(不倫のほか、盗みや、思いがけず人を殺してしまうことになるエピソードもある)

【宮崎駿の描く姫とそれをとりまく男性に対する批判であるところのかぐや姫】

このアニメに出てくる男性は一貫してグロテスクに気持ち悪く描かれているということについて、みな意見が一致。

ひーめ!ひーめ!と言いながら手を叩きかぐや姫を呼ぶ翁の姿はナウシカの側近が「ひめさまー!」と叫ぶ様子を想起します。また、福本信行作品に出てきそうなあごの長すぎる帝が姫の了承なく後ろから抱きすくめるさまなど、はじめから最後まで男性陣が過剰に気持ちわるく演出されている。じぶんの人生をまじめに生きているようにみえた捨丸もけっきょく最後には姫の魅力に落ちてしまいます。

また、求婚する5人の男のうち、ひとりはつばめの巣をじぶんで獲ろうとして落っこちてしまい、うちどころがわるくて死んでしまいます。姫は消去法でこの男と結婚するのがいちばんましだったのではないかという意見もありました。家来に獲らせることもできたはずなのにじぶんでがんばってとるあたりがかれはガチ恋勢であり、憎めないやつなのだと。でもそいつ以外も基本的にみんな塩対応にもめげない推し全肯定の態度でした。(これでいくと後方彼氏面ポジは捨丸だったのか?)

そのほか、状況の奴隷ばかり、親や月にさかおうと思えば逆らえたのでは。主体性がない、モラトリアムで、ずっと少女でいたいという話なのか? などの意見もありました。

 

皆であるていど意見がまとまったと思ったのは、

「男性優位社会における市場価値にあらがおうとするフェミニズムの文脈をかこうとした話」というのは盛大にミスリードであり、もっとちがう部分、姫の一見人間らしいとされる感情の起伏以外のところに焦点があるのではということでした。(冷静にみると姫に人間らしさを感じ取ることはむずかしいという意見が多かった)

 

また、主な話し合いの焦点になったのは「物語の最中に起こる不思議な現象をどうとらえるか」です。

いまこうやってひととおり書いていて思ったのは、姫はそもそも竹から生まれて月に還っていくという話だと竹取物語で皆知っていて、そのことはどれだけ不思議でも自然と信じきっているのに、最中の不思議な現象(雪山で倒れても元の場所に戻っていたり、透明になったり、空を飛んだり)のことはなぜ疑ってしまうのだろうということですね。よく考えたらはじめから不思議な存在であることは十分に示唆されているのだから、姫がどんなに不思議なことを起こしてもおかしくないという態度でみていて良いはずなのに、「これはおかしい、なにか理屈があるんじゃないか」いう態度でみてしまう。それって結局、「人間にみえるように」かぐや姫に幻惑されてたのかもしれないなあなどと思いました。

 

個人的には他者とフェアな議論ができる場所をつくりたいという欲求が最近ものすごく強いのですが、今回こういう会をやったのも、その動機にむすびついています。

アニメの鑑賞会のようなことをやるのははじめてで、うまくいくか不安もありましたが、監督の画コンテだとか資料を用意して作品外の要素からも紐解いていかないかぎり作品の意図を「正しく」汲み取るのは、おおよそ難しいとおもいましたし、それにとらわれすぎず、各々の想像を手助けできるような感想、批評会ができたらそれでいいんじゃないかと思いました。今回はあるていどそれができたんじゃないかとおもっています。

一緒にみていただいたみなさまどうもありがとうございました。