風立ちぬ鑑賞会

8/17土曜に風立ちぬ鑑賞会を京橋URAにて行いました。

企画の発端は前回(かぐや姫の物語鑑賞会)とほとんど同じなのですが、ひとつ言えるとすれば、むらた氏は風立ちぬがきらいと言い、URA運営人よすだ氏は好きと言い、(ちなみに私はきらいと言った)こんなに意見がわれるのはどういうことだ、あらためて観てみよう、という運びでした。

今回の参加者は運営人らも含めて10名。(女性3名・男性7名)
そのうち、今回はじめての鑑賞だった人が4名、
2回目以降が5名、
まったくみたことがない人が1名(鑑賞会に参加はせず、感想会だけ来てくださった)という状況でした。

また、2回め以降だという人たちは過去にみたときの風立ちぬの印象として、好きと嫌いとで半々くらいでした。

(あとは、先にことわっておきたいのですが、今回メモしていたデータが消えてしまっていたようで(すみません……)、ほとんどを記憶から引き出して書いています。発言されていたことに取りこぼしや少々の相違があっても寛容にうけとめていただければ幸いです。)

(※この記録はすでに風立ちぬを視聴されたことのある方向けです。
あらすじや作品概要なども端折ります。)

【風立ちぬは夫婦愛を描いた作品?】

お一人、まったく鑑賞なしで感想会にだけきてくださった方がいて、
みんなで感想を述べ合うまえに、まずはその方から『「風立ちぬ」とはどんな映画だと思うか?』印象をきいたところ、映画の広告などで知ったイメージから「夫婦愛を描いた話だと思っている」というようなことをおっしゃっていたのが印象的でした。

実際は夫婦のエピソードについて、

二郎もそうだが、勝手に帰ってしまう菜穂子もエゴイストなのではないか。似た者同士の恋愛なのだから他が口出しすることではないのではないか、

「そもそも二郎は基本的にじぶんのことしか考えていない。サナトリウムで療養中の菜穂子に送った手紙も書いてあった内容をよく読むと、後半はじぶんの飛行機の仕事のことばかり書いていたように見えた」「むしろ全体の物語を通して考えると、後半の夫婦エピソードがあること自体に違和感がある」などの声がありました。

当時はタバコのシーンについてよく取り沙汰され批判の対象になっていたように思いますが、それに対しては、うつるかもしれない結核の菜穂子と一緒にいるという時点でお互いさまなのでは? とも思いますし、実際に今回の鑑賞会参加者にはこの点に対して強く反発をしたり、引っかかるというふうに言っている人はいなかったように思います。

(ちなみに感想を一周してから、冒頭の方にあらためて印象を聞いたところ、「自分のエゴで女性も見捨ててしまう男性の話」とおっしゃっていて少々申し訳なくなりました……、ぜひじっさいに鑑賞してどう感じるか確かめていただきたいです)

【風立ちぬは主人公のエゴを描いた映画?】

鑑賞した人たちの話をきいていると、主な焦点であったのは、「これはエゴを描いた映画なのでないか?」ということであったように思います。

「子供にシベリアをあげようとするシーンが最後までつづきそれをずっとみせられている気分になる」という意見もありました。

しかし、このことについて、長く話すうち、それはあくまで表面的でわかりやすいテーマなのであって、実際に描かれていることはもっと別にあるのではないか? ということを探っていけたように思います。

二郎はエゴイストだからだめだとか、良いだとかを議論しているようではこの映画に描かれているもっと別のものを見落とすのではないか……。

最終的に感想会に遅くまで残ったのは5人ほどでしたが、各々そういう共通意識があったように思います。すすめていくそのなかで、やはりエゴの肯定ということだけでこの映画をとらえるのは無理があるのではないかという手応えらしき話あいができたようにおもいます。この件については後述していきます。

【カストルプをどうとらえるか】

  • 心のなかのお友達説
    物語中盤に出てくるカストルプというドイツ人(?)について、これは二郎の心がつくりだした幻想なのではないか……? という意見がありました。そんなばかなと思いつつ、みんなでカストルプが吸ったタバコを確認するなどもしましたがかれが消えたあとのタバコは灰皿に置かれ煙も描かれていましたし、一応は二郎のまえに実際にあらわれたキャラクターなのだろうという判断になりました。この意見が出たのは、風立ちぬ自体、夢と現実がうまく入り交じってどちらかわからないようなシーンや言葉が何度も繰り返される構成だからだと思います。
  • 菜穂子との恋路がスムーズにいかなくなる暗示としてのカストルプ
    トーマス・マン『魔の山』を引用し、「忘れる」という言葉を繰り返すカストルプ。世界情勢を混ぜて不穏なことを話してきたり、二郎と菜穂子のあいだで往来する紙飛行機をあいだに入ってキャッチし、にぎりつぶしてしまった描写もありました。
    二郎が目をそむけている現実を目の当たりにさせる存在としてのカストルプという見方もできるかなと思います。
    また、日本のエンジニアの男と女の恋を暖かく見守る外国人というそれ自体が不穏、彼は実際は後に特高に追われる身であり、雲行きを知っていて見守っている気持ち悪さがあるという意見もありました。

    そのほか、
  • 地震の描写が衝撃。音が気持ち悪く、あらためてみても音がほんとうに気持ち悪かったという意見
  • 本庄との関係がBLにみえるかという視点からみてみたが、違和感なかったという意見……(二郎が菜穂子と結婚してから急に「俺たちは美しい飛行機をつくりたいだけだもんな」などと言い、二郎とロマンを共有しようとする描写があった、など。)

【「夢がつながった」をどうとらえるか】

映画の冒頭で二郎とカプローニの夢がつながったと示されるシーンがあり、これをどう捉えるかで読み方がかわってくるようにおもいます。

それは主に、映画ラストのカプローニとの夢に菜穂子が登場し、「生きて」と手を振るシーンにかかわってくることで、「夢がつながる」を素直にうけとめこれを前提にかんがえれば、「菜穂子も、二郎とカプローニと同じ夢を共有できたのだ、だからあの場にやってきて手を振ることもできた」ととらえることができるとおもうのですが、それでもやっぱり「菜穂子がどう感じていたかなんてわからないことではないか」というふうに引っかかっている人も複数いました(私もそう)。(しかしながら全面的に、素直に読み取って感動されている人もたくさんいましたから、これはやっぱり本来必要のない見方であり読み方なのかもしれません。いまあらためて書いていてもそっちのほうが正しい読み方のようにもおもえます。ですが感想会に最後まで残っていた数人はそこはなんとなく納得できないという人ばかりだったので、今回は「菜穂子がどう感じていたかなんて確定的ではないしわからない」という立場ですすめた結果を書いていきます)。

【二郎は現実を見ないのではなく、見る能力が欠如していた?】

「夢がつながった」という言葉を素直にうけとるならば、「カプローニや菜穂子と共有する無意識の領域のような場所に足を踏み入れた」ととるべきかもしれませんが、夢というのはほんとうだったのかなんだったのか、よくわからない、二郎の「まぼろし」として捉えることもできる、ラストのシーンで二郎は菜穂子に会っても、まだなおカプローニとすぐに呑みにいってしまうのであって、冷静に観るにはあまりにつらいものがあります。ですが、直前の「ありがとう」と何度も言いながら涙するシーンには一方で切実さを感じます。このように考えていくと、二郎は意図して「現実をみる能力を削って」描かれているような感じがしてしまうという見方が浮かび上がってきました。

カプローニの「ピラミッドがある世界とない世界どちらがいい?」という質問や、カストルプの世界情勢を絡めた質問に、「美しい飛行機がつくりたいんです」のような言い方で回答する、それはまっすぐな態度であるようにみえるが、じつは質問からかんがえると毎度見当違いな切り返しをしている、二郎の言動をみていると、現代でいうところの発達障害(ASD)っぽいという話が出ていました。(これは今回鑑賞会を行った京橋URAでは定期的に発達障害者向けの自助会がおこなわれていることもあり、ブログにもこの言葉で残したほうがいいと判断しました)

とにかく監督の態度や、まなざしがいやだという意見もありました。なんだか自己陶酔的にみえてしまう、というような。

これをなんとか言葉に置き換えていくために外側から引用してくるしかなかったのですが、ジブリの作業現場のドキュメンタリーに『夢と狂気の王国』というDVDがあります。そのなかの宮崎監督へのインタビューのワンシーンで、

「僕は変なんです。たぶんね。飛行機ファンとちょっと違うんです。零戦好きじゃないんですよ僕。なぜならほとんどオタクのものだからです。こういうの好きだっていってるのオタクなんですよ。オタクは何も学ばないのをオタクっていうんですからね」

「監督はオタクじゃないですか?」

「僕はオタクじゃないです」

(――しかしそのシーンのあとにブーンと大きな声を出して、飛行機プラモデルで庵野秀明と一緒に遊んでいる宮崎監督の様子が映しだされる……)

じぶんはオタクではないと言いはる宮崎監督は、同時にオタク気質であり、しかし自身で定義する「学ばない」オタクになりきれないところがある。上記の件を参考にすると、「(現実をみる能力の欠如した)ずっと学ぶことのない愚直な人物」にどこか憧憬をもって風立ちぬを描いたのかもしれない……とも思えてきます。

(もののけ姫ジコ坊がアシタカに言う「バカには勝てん」というセリフも、ここにつながってくるという意見もありました。)

そしてそれ自体を肯定し美しく描き切った監督をゆるせるかどうか、寛容にみるべきと考えるかどうか、で、映画「風立ちぬ」をきらいと感じるかどうか、わかれるのではないか……、話し合いは、そういう結論にいたりました。

(今回書いていて思い出しましたが、宮崎監督は庵野秀明のエヴァンゲリオンを「庵野はね、あんな素直な作品つくっちゃってね」みたいな評し方をしており、これは庵野の作品への愚直な態度それ自体を評しているともとれますし、庵野秀明が風立ちぬの二郎の声をあてることになったのはある意味で宿命的だったといえるのかもしれません……)

(個々人の感想を名前をあげてブログに残してしまってよいものか迷うので、自身のことにとどめておきたいのですが、少なくとも私はあらためて感想を書いていて、前ほど「納得いかない」「好きじゃない」感じはなくなってきました。むしろ好きかもしれない、もうきらいな作品こそ鑑賞会やったほうがいいかもしれない)

いずれにしろ感想会ほんとうに盛り上がりましたし、話し合うにしろこれだけの材料が出てくる映画『風立ちぬ』は名作だというのは全員一致の意見でした。

このたびもご参加くださったみなさまありがとうございました。