Grave

R眞

「そろそろ出かけましょうか」
 母は少女に声を掛け、少し大きめのバッグを持ち、玄関に立つ。
ドアを開けると、日が差し込んだ。
 影によって黒く見えていたスペースが少しずつ白い領域を広げていく。そしてそれは、少女の足元までやってくる。
 白く照らし出された空気中に、塵や埃が浮かんでいる。今までぼんやりとして見えなかった下駄箱と床の境目もはっきりと浮き出し、空間はすっかりと明るくなった。
 白く照らされた靴の底を見て、この履物に色が付いていたことを少女は思い出す。

 少女の名は真富士といった。
 まるで、国の象徴とでもいわんばかりのこの名を、美しいと褒める者は多くいた。
 しかし、当人はこの名をあまり好ましいものと考えていなかった。
 真富士は、国の決まりごとや文化に重苦しさに近いものを感じていた。
 たとえば、漢字にしても、一字一句に意味があるということを学んでからは、自分の名前を漢字で書くことすら気が重かった。
 できる限り「マフジ」と片仮名で書いたり、「mafuji」とアルファベットの表記を学び、音として自分の名前を認識することに努めたほどだった。しかし、遠ざかろうとすればするほど、いったんはこの名前と身体に戻らねば、何事も最適な回答へ導かれることはないというような、力でねじ伏せられるような抑圧を感じ、離れたい欲求と同時に逃れることはできないという事実を改めて思い知らされるのみだった。

 母は、靴を履く作業に手間取っている娘の手を取った。
 日が照らされた、コンクリートへと一歩足を踏み出す。真富士もそれに続く。
 本来、真富士は手を繋がなければならないほどの幼い年齢ではなかった。
 しかし、母はできる限りこの少女の手を直接握ることを惜しまなかった。身体に触れる、という方法は、母が知りうるなかで、一番確かであると感じられる、娘をこの場所に繋ぎとめることのできる数少ない方法のひとつであると考えていた。

 母は車を運転する。
「今日は暑いね」
 娘は、外の風景を夢中で眺めているように見えた。しかしそれが、何に心を奪われているのでもないことを、母は知っていた。
 田畑ばかり目に映った。しかし、あまり人気のない場所で、まるでこの閑散とした風景のために人工的なものを用意しているのではないかと思えたほどだった。窓を開けると、潮の香りがした。海が近いようだった。

 真富士にとって、この旅行で予定している墓参りは億劫以外の何物でもなかった。
夏の暑い時期を見計らって出向く必要があるのかという、天候を味方につけにくいという不満もあったが、真富士にはそれ以上に怯えていることがあった。

 真富士には悩みがあった。
 それは、他人に打ち明けることそれ自体が一種の勇気を必要とする類いのものであった。
 はじめは、気のせいだと思った。
 ある日を境に、生活のなかで風景の見え方が変わった。
 例えば、一冊の本が置いてあったとする。
 間違いなくそれは、そこにあるのだが、つまり「置かれている」ということがいったいどういうことなのかわからなくなった。
 視覚で飛び込んだ映像は、そのまま情報として認識されることはなく、目の前に存在する物体は、真富士と距離をつくるでもなく離れるでもなかった。真富士はほどなくして混乱した。
 そして次の段階では、同じ場所に留まることが難しくなった。身体はいつでも、信頼できる場所を求めて歩き回った。
 そこにある物質を、存在するものとして信頼し、身体を委ねることが真富士にはできなくなっていた。
 聴覚と触覚は必要をゆうに超えたはたらきをし、空気中にある塵の音や、それが肌に張り付く感覚がはっきりと確認できた。

 そして、最後の段階までくると、真富士は睡眠をとることができなくなった。感覚的なものというよりは、実際にそこにある布団は、そこにあって同時にないものであるいうことが眼に見えてわかったし、触っても空気中との境目がわからなかった。
 この、矛盾している状態が目の前に存在していると理解できたとき、まるで、この世界が必死で隠している重要な秘密でも知ったような気になった。
 真富士は今後、周りの子供たちのように、跳ね回るように遊ぶことはできないだろうと思った。真富士にとって、地面は身体の体重をかけ、足を一歩踏みしめるほどの信頼に欠けた。飛んでくるボールは真富士の方へやってくるまでにすでに顔に張り付いているのと同じであった。

 しかし、人間の順応力というのは真富士の予想を上回るものだった。
 ある程度の睡眠の不足では生命に関わることにはならなかった。
 そして、生活していける程度の健康が保たれた。
 これは、望みであると同時に、救いがないということもできた。この感覚を共有できる相手を持たぬまま生活を続けていかねばならない。
 自身の持ち合わせる恐怖については、自分で背負っていくしかないという事実がまず目の前にあった。この、どうしようもない望みのない状態を理解しながらも、いずれ共有できる者が目の前に現れるのではないか。
 そう希望を持たなければ生活していくことは困難に思われた
 自身と周囲は、常に同じ風景は見ていない、と理解し、受け入れるのに、真富士はこの悩みとの付き合いは長くなかった。

   ◇

 車から降りると真夏の強い日差しが照りつけていた。
 整えられた足元のコンクリートは平らで、影というものが見当らなかった。
 歩きやすいように整えられた道であったが、真富士の不安を拭う助けにはならなかった。
 母は真富士の手を引き、なかば強引に歩を進める。
 到着した場所には墓石があった。
 あたり一面、墓石が置かれていた。その墓石の行列は、真富士の目線を覆ってしまう十分な高さで、どこまでも先がなく広がっているように思えた。
 どこからか線香を焚く香りがしたが、場所を特定することはできなかった。
「じゃあ、水の用意をしましょう」
 この異質に見える墓石だらけの空間はどこまでも続いているかのように思えたが、ちょうど観望の休憩のためとでもいったふうに水場が用意され、蛇口が備え付けられていた。
 蛇口をひねり、母から預かった容器を水でいっぱいに満たしてしまう。
 水滴の多くは、乾いていた場所へも飛び散ったが、そのまま少しの黒も許さないといいったふうに、   太陽は照り付け、多少の水滴は瞬く間にコンクリートの白に戻ってしまった。

 母は、容器に、白い花を活けた。
 真富士は、この花の名前を思い出せなかった。
 あるいは、もともと知らない花なのかもしれなかった。
 しかし真富士は母に尋ねたりはしなかった。
 目立たぬよう、白を選ぶことが多いそうだが、白はとても目をひく、主張のある色に感じられ、真富士は、自分ならばおそらく、避けてしまいそうな色だなと思った。
 しかし、この墓石という大きな不自然の塊の前では、ちょうどよく均整がとれているように見え、もともとこの花を置くためにあらかじめデザインされたのではないかという考えも浮かんだほどだった。
 母がお経を唱えた。
 真富士は黙って母のお経が終わるのを待った。母は、あらかじめ決められた言葉を次々と口にした。言葉は、母から慣れ切った調子で並べられたが、このすべてに意味があるのだと教えられて以降、比例するように真富士にはなんの意味もないように感じられた。
 そして、いつか自分が母の代わりにこれを口にするのだろうと思うと、それを目の当たりにするほどに、自分とは関係のないもののように感じた。
 母の声が止み、真富士は眼を開けた。思い切り力を込めてまぶたをおろしていたせいで、視界がなかなか定まらなかった。

 しばらくすると、まぶたの裏のまっ白から、風景は変わっていった。
 陽の差す方角には、多くの樹木が並んでいたはずだったが、影により黒く統一されてしまって、まるで一色で塗り潰したかのように濃淡がなかった。
 対比させるかのように、陽の光がたくさんの墓石を平等に照らしていた。
 真富士はこの光景に対して張り合えるような、立派な行動をみつけることができなかった。
 とつぜん立ち上がったり、感嘆の言葉を漏らすことができなかった。
 この光景と対峙できた幸運は、決して些細なことではないように思えた。
 眼の前で繰り広げられた色の移り変わりは、真富士を飲み込むようだった。
「真富士、なにをしているの。早く帰りましょう」
 母の声が、背後から聴こえた。
 しかし、少女は動かなかった。

   ◇

 外出を予定して以降、ずっと不機嫌だった少女が途端に外界に目を向け、自分の声すらも届かないほどの状況に、母は驚いた。
 この一点について言えば、大変喜ばしい変化のようにも思えるが、それはあまりに楽観的でないかと母は気付いていた。
 そこにある光景はなんとなく、とても自然なものであるように思えるが、だからこそとても不自然だった。少女は、とても直視するのは難しいであろう陽を、なんの臆面もなくじっと、見つめていた。
 自分の声はまるで届かず、この空間に少女以外は存在しないかのような立ち振る舞いをしていた。
 実際、本来の意味で、自分の存在を消されてしまったかのような恐ろしさを、母は感じていた。
 母は、少女の悩みを共有している唯一の人物であった。しかしその理解は、表面的なもので留まっていた。
 はじめは、とても心配をした。
 実際、ふだんからは考えられないほどに落ち着きがなくなることが、ときどきあった。
決して広いとは言えない部屋のなかで、なんども場所を変えて、立っては座り、また歩き回り、といった行動を繰り返すのである。
 また、眠ることができないようだったから、やむなく医者に診せ、その方面の薬を処方してもらったこともあった。
 しかし安定させると銘打った薬というのは、あくまで間に合わせのような性格があるように思えた。
 実際、眠れることはできているようでも、朝食で見せる娘の表情は、母の期待するものとはあまりにも遠かった。
 気を紛らわせるために、とくべつ目的なく、ディスプレイに映像を流しておくこともあった。
「今のお話はおもしろかったね」などと声を掛けても、何のことだろうといった表情をするばかりで、内容はまったく頭には入っていないようだった。
 音楽を聴いてみてはどうかと勧め、イヤホンを部屋でずっと耳にしていることもあったが、本人の様子はとくに変わらなかった。
 不満として漏らすだけでも、母にとっては娘のことを理解するための貴重な情報のひとつだと感じられたのだが、とくに愚痴をこぼすこともなく、何か提案をするたびに、太刀打ちできる術がないのだと突き付けられているようで、当人は落胆しているように見えた。
 実際に、原因を解決をするようなものは、見当たらなかった。それに、問題と向き合えばそうするほど、自分たちのいる場所とは全く異なる方角へ、娘を推し進めてしまうような予感が母にはあった。もっと正確に言い直せば、すでに歩んでいるのだが、その速度をはやめることになるのではと、考えていた。
 それに、なんとなく、この少女は別人のような顔をすることがあり、母は以前から危ういものを感じていた。

 やはり恐ろしく、しかし、放っておくことのできない母は、慌ててもういちど声を掛けた。
 少女はようやく振り向いた。
「お母さん、日の光すごくきれい」
 母は、娘のこのような表情を見たのは、とても久しい気がした。しかし、その落差の激しさはむしろ母から望みを奪うような結果となった。
 手放しに喜べるほど、この問題との付き合いは母にとって短い期間ではなかった。
「そうね。だけど、もう帰ろうね」
 そして身体ごとこちらに向けるときには、娘はあからさまに不機嫌な顔付きとなっていた。
 母は、そこでようやく安心した。それが、いつも通りの娘の表情だった。

 母は、真富士を抱きしめた。
そして娘の手を取って、ここで起こったすべての、事実、現象について、忘れてしまえるよう方向を変え歩き出した。まるで、なにごともなかったかのように帰路につくことにつとめた。
 真富士は母に手を引かれながらも、熱されたような暑さのなか、この場を離れなければならないことに、不愉快を感じた。

   ◇

「夕刻には戻るからね」
 そう言うと母は、旧友との約束があると言って出掛けてしまった。
 昨晩は、叔母の家で寝泊まりをした。
 風鈴がときおり頭上で揺れ、その都度、何か目に見えないものを表現しようとでもいうように、音を鳴らした。
 部屋の畳は、外の暑さからは別の空間を保障してくれているかのように思えて、眠気を誘う。
 室内にもかかわらず、扇であおいでいると、なんとなく潮の香りがした。昨日まで住んでいた街の名前すら、忘れてしまいそうだった。
 それほどに、真富士の興味は、ひたすら、墓場から見る日の光にあった。
 真富士はもう一度、あの日の光を見たいと願った。自分の見えすぎてしまうこの感覚について、あの場所とあの風景だけが、唯一の理解者ですらあるようにすら思えた。
 母に急かされたせいで、わかることすら見逃してしまったように感じ、この機会を逃してはならないと思えた。
 真富士は実行に移すことにした。
 叔母にジュースを買いに行ってくるなどと適当に伝え、母には黙って、墓場へと向かった。

 真富士は墓場へと向かいながら、「墓」というものについて考えた。
 真富士には、これについて、それなりの位置付けが既にあった。墓というのは、ただ、自分の肉体はいずれ滅びるという事実を知るためのものだと考えた。そして、自分の意識が途切れた後も、この地面は存在し、時間が存在し、近しい人も、生活を続けていく。そういった想像を、はたらかせるためのものなのだと理解していた。「一度きりの人生」などという言葉に惑わされぬよう、自律を促すようなはたらきを持つものだと理解をしていた。
 この、言葉や風習での徹底したものを思うたび、昔の人はずいぶん自由に憧れたのだろうと思った。 その裏返しとして、これほどまでに様々なもので形を維持するようつとめたのだと結論づけた。
 真富士は悩みのこともあり、自由や不自由という概念がよくわからなくなり始めていた。
 たとえば、連絡のために通信用端末を持ち歩いている。自分が立っている位置や、近くに居る人と実際に会わずとも情報の共有もできる。
 ただ、やはりその内容を発信するのはこの端末を手に持ち、操作できる身体があってのことなのだ。 やはり身体からは逃れられないのだと、理解する。
 そこにあるのは、事実の把握のみで、真富士にとっては、自由でもなく不自由でもなかった。そして、そこから自分の真富士という名前や身体や悩みも含め、毎日続いてゆく生活は決して切り離すことはできないものなのだと改めて理解していた。

   ◇

 到着した墓では誰の姿も確認することができなかった。
 また、昨日の光景はどこにも見当らなかった。昨日は日光が真上にあったが、日は既に傾き始めており、時刻は夕方近いと予想できた。
 墓石の行列は乱れないよう整理されているおかげで、かえって人の意志を見せつけているようだった。
 真富士は自分の足で歩いてきた充実感に対して、追いつかない果報に行き場のない感情を持った。まるで友人に約束を破られたような気持になった。

 日の光はただ熱を与えるのみだった。
 真富士は、水場があることを思い出す。
 昨日は母が手を引いていたせいで気に留めることもなかったが、真富士の目線では水場がどこにあるのかすぐに思い出すことができなかった。
 仕方なく、墓石の行列のなかを割って歩く格好となる。
 目線の高さほどまである墓石には、黒い文字で記された大きな文字で、長い漢字の名前が彫られていた。生きていてすら、この国から離れることは、この先考えられないような、そんな気持でいるにも関わらず、身体を持たなくなってからも、重厚な名前を持つことになるのかと思うと、やはり今の自分の存在は、もうずっと永続的に、本質的には変わることはないのだと、受け入れていくしかないように、真富士には思えた。
 ひとつの墓石の前に、花を活けた容器が置かれてあった。昨日、母が活けていた白い花であった。この炎天下で変わらない意志を保つことは困難であったようで、しおれていた。
真富士は容器のなかの水を取り替えることを、思いついた。
 花の茎の部分をつかんで容器から取り出し、いったん、墓石の前に置いた。
 覗くと、真っ暗だった。自分の影が邪魔をしているのだと気付き、日を容器のなかに当たるように体の向きを変えた。
 なかの水には小さな虫がたくさん浮かんでいた。辛うじて黒い点として確認できる虫たちは、とても生きているようには見えなかった。
 真富士は日を当ててしまったことは少し悪いことだったように感じ、慌てて身体を戻すときに、、うっかり手元の容器をひっくり返してしまった。
 容器から水は零れた。
 真っ白だったコンクリートは水に濡らされみるみる黒く侵された。容器のなかの浮いていた虫も、どこに行ってしまったかわからなくなった。

 そのとき、不自然に耳につく音で、真富士は不快な思いをした。
 通信用端末が鳴り響く音だった。
 慌ててスカートのポケットから取り出し、確認した。
『どこにいるの』
 母からのメッセージだった。真富士は母に黙って出てきたことをそのときまで失念していた。
『お墓にいるよ』
 勝手に出てきて、ごめんなさい。そう続けようと思い、返信メッセージを打ち込んでいた。しかし、ディスプレイにあらわれた文字を確認したとき、真富士は、先に自身が打ち込んだはずの言葉に、殴りつけられたような気持になった。
 真富士はそのとき改めて自分がどのような目的で一人でここへやってきたのかということを思い出した。
 ゆっくりと視線を周囲に移していくと、夕陽はまさに沈みゆく最中であり、大きな墓石は真富士を影で覆ってしまうのに十分な高さがあった。
 行動をもって学ぶということは、すでに事が起こった後なのだから、その経験を再度活かす機会が訪れるかどうか、怪しいところがある。
 真富士は端末に入力する文章をゆっくりと打ち直した。
『おhaかにやってきたつもりでしたが、どこにいるのかわかりません。
カッテに出てきてごめんなさい。
けれど、mafuじハどうしてかってにでてきてはだめなの』
 真富士は、大変なことをしたのだと、過剰でも不足でもなく理解した。
 改めて周囲を見渡した。

 ドコまでもツヅく、オオキナhaかishiノギョウレツハ、イママデ、キがつかなかったコトが、モウシワケなくオモえるほど、とてもフシゼンなコウケイダッタ。
 haka場とイウノハ、フシゼンをフやし、ノコしていくことにヨッテしか、ジブンたちのイシをシメせないのだと、リカイし、うけいれるバショなのだとニンシキシタ。
 トオクからはナミのおとがキこえ、ダイダイイロはドノhakaishiニモ、ヒトしくヒカリをアびせていた。
 ヒルマとはチガい、シオにマジッテ、senko のカオリがスル。
 アルhakaishiノマエニハ、juzuガ、オキザリにサレテイタ。
 juzuニハ、ユウヒをハンシャサセルことにトッカしたヨウナ、トウメイデ、ウミをレンソウスルヨウナ、ウツクシサガ、アッタ。
 ネムッテイルアイダニ、hakamairi デ、ヒトノ、デハイリガ、アッタノカモシレナイ。
 シカシ、イマハ、ヒトケというモノハ、マッタくカンじられナカッタ。

 待ちわびた光景を見渡すうち、恐怖などといった感情は消え、この空間にともに存在している自分は、なぜこの景色との間に疑いようのない境界線を持っているのだろうといったことを考え始めた。
 少女は、人が死の象徴にまで引き上げてしまった墓という場所で、死ぬことも、また、生きるという概念も、自分からは完全に失われたように感じた。
 そこには、意思がなく、哀しみもなく、喜びもなく、ただ、自分が地に足を付けて動いているという事実だけがあった。

 この事実に直面したとき、人と、足元に転がる泥が同質となった。
 少女も同じく、そこに存在しないのと同じになった。
 少女は、今までおそれていたものについて、いっさいの恐怖がついになくなり、理解し、そして受け入れた。
 その時をもって、どこからが少女で、どこまでが少女であったか、また、あるべきか、不明となった。

 通信用端末が鳴り響く。
 応答しなくては、と思った。
 しかし、先ほどまで手にしていた端末は、気付けば足元に落下していた。
 自分で帰り方が思い出せなくなった。
 また、思い出すことが幸福かどうかも怪しくなり始めていた。
 ただ、身体がとても重く感じられ、陽の光が暖かく、身を委ねることが正解であるように思えた。


  <了>
  < 2013年 CRUNCH MAGAZINE 寄稿 >


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