self cut

R眞

 深登里は毎日のように夫にご飯を作り、すこしの団らんをしたあと、身体を具体的に愛されることを望んでいたのだけれど、いつからか夫は妻の見飽きた身体よりも手元の小さな端末でゲームという虚構の世界で遊ぶことを好むようになり、そうかと思えば次はベッドのなかでひとり無意識の世界へと旅立ってしまうし、実質、そのまま朝まで帰ってこないようなものだった。

 とはいえ彼の身体はじっさい目の前にあるのだし、あまりにも我慢がきかなくなるまえに深登里は思いの丈正直に伝えるのだけれど、「疲れている」のそれ以上対抗仕様のない一言で打ち返されてしまう。
 疲ればかりはどうしようもない、と深登里は理解を示しながら、しかし自分の欲望も同様にどうしようもないものであることに気付き、そしてまたどうしようもないことを求めてしまったとじぶんを責める。

 このままではまったく良い方向へは行かないと関心を外へ向ける努力をしてみるものの、この夫、妻を家に縛り付けることには熱心で、他の男性と口をきいただけで怒鳴るような男であったから、はじめは深登里もこれが彼のエロチシズムを成立させる材料のひとつであると理解し協力していたのだけれど、いつまでたっても彼は深登里の身体を以前のように女として触るそぶりすら見せなかった。

 まるで万事、うまくいっているかのように振る舞う彼の態度と、彼女自身の忍耐は深登里をむしばみ始める。

 深登里の瞳からは自然と涙が流れるようになった。
 それがなんども繰り返されるようになると夫は家庭が窮屈で省みることがなくなり、そうしているうちほとんど家に帰ってくることがなくなった。

 夫と夕食を共にすることが久しかったある日、顔を合せたけれども相変わらず女のじぶんから目を逸らし続ける彼をとうとう責めてしまう。関係を表面上うまくいかせることの価値に、深登里は若さのせいもあって気が付かなかったのである。
 もう、こんなことなら死にたい、そんな言い方をしたものだから、彼はあからさまに不快な表情と「死にたいとか意味がわからない」という言葉だけを残してその晩は出て行ってしまった。

 リストカットはいまや死ぬこととは直結しない行動で何の覚悟も無いとみなされる。
 Harakiri(すでに失われてしまった概念であるけれども)ですら介錯が必要で他人に手伝ってもらわなければならなかったのだし、本来、人というのはなかなか死ねないのだ。
 頼める者もなく、けれども絶対に仕損じることのない手軽な方法となれば高所から飛び降りることであると深登里は考えた。

 マンションの階段を上りながら、ひとりの男性を何としてでも愛し抜きたい、貞淑でありたいという想いは伝わらなかったのだ、などと考えていると悔しさが込み上げた。
 ふだん使われていない階段の手すりは錆びついていて、まだ本来の白い塗装が残っている部分を探す方が難しかったが、できるだけ錆を避けながら手すりに頼る。
 あるていどの高さまでやってきて踊り場で、暗くて真っ黒な眼下を見下ろしているうち、深登里は、とてもじぶんはここから飛び降りることなんてできないと思い始める。
 自然と足が一歩退き、階段を踏み外し、あやうく転倒しそうになったものの、手元はしっかりと手摺を錆ごと掴み、怪我が最小限であるよう努力していた。

 私は夫のために死ねないのだ――
 そう気付いたとき深登里はすでに夫を愛していないことをついに認めた。
 そして醜さから美しさへと翻って魂はひらひらと舞い、深登里は観念的にいったん死ぬことに成功したのである。

<了>
< 2014年3月 CRUNCH MAGAZINE 寄稿 >
<2014年3月 当時サブタイトル「――私はどこへでも行ける」>

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする