るま一覧

文学少女と夕暮れ

 私の日課は夕刻に、公園のベンチに座りこみ、読書をすることだった。
 陽の光で暖かくなった木製のベンチは私の気分を高揚させる。冷たさを確認するためにミネラルウォーターの入ったペットボトルにときどき手を添える。
 本の表紙を開く。
 手に取るものは日によって異なり、少し粗雑に扱ってしまいたくなるようなページの取れかかったものだったり、書店で購入したばかりの人気作家のものだったりする。本を選ぶ基準としては、装丁やタイトルをめじるしにするほか、天候や部屋の温度も参考にしたりする。
 最初のうちは蛍光灯のもとでやるのと同じように文字をひとつひとつ確かめるように目で確認していくのだけれど、そうしているうち、夕陽は手元の文章に差し込んでくる。眩しさですこし文字は見えづらくなり、樹や鳥の影が映りこむ。それらが文字と重なったとき、文章の上で成立しているであろうまったく別の世界、景色、テーマ、物語――そういったものと映りこんだ影、そして自分――これらの境界があいまいになっていく。
 この瞬間に、私はたまらなく幸福を感じるのだった。
 しかしこれはあくまで私のあたまのなかで起こっていることであって実際の私は夕刻のベンチでただ静かに一枚ずつページをめくっていく。

  ★

 その日も選んだ本を手にし、目的地へと向かった。
 私の住む街はおそらく、「都会」に分類される。そして私が日ごと通うその公園は、都会にあるそれとしては一般的に想像されるよりもはるかに大きな規模だった。この街に住む人ならば誰でもその公園の名を知っていると思う。
 しかし、私が日課とするその場所――その公園の一角は、ほとんど人が立ち寄らない。おそらく知られてもいないだろう。原因のひとつとして、身体を休めるためのベンチ周辺が、陽が落ちる時間帯には眩しくなりすぎるというのが考えられる。例えば近くにある時計は、盤の位置を西の方角へ高く掲げてしまっているものだから、人が帰路につく重要な時刻に肝心の役割を果たせていなかったりする。その他にも、公園の入り口からあまりにも距離があるすぎるから、それはもうあらかじめその場所を知っていて、まっすぐ目的地と定めて歩かねばわざわざ辿り着いたりはしないような場所だということも原因のひとつだと思われた。

 公園の入り口にある販売機にてミネラルウォーターを購入する。
 私にとって、目的地に辿り着くまでのコンクリートの道も楽しみのひとつとなっていた。樹の影が私の足元に次々とあらわれる。たとえばひとつの樹の影を踏んでみる。すると影はするりと抜けて私のフラットシューズの上にいく。そうして次の影、また次の影へとしているうちに歩はすすむ。

 影踏みに夢中になっていた私は目的のその場所にその日はじめて目をやることになったのだが、いつも私が座る場所に先客がいることに気が付いた。
 私は後悔した。
 もっとしっかり目的のこの場所を遠くから確認できていたならば、この先客の存在にはとっくに気が付いていたと思う。そして、今日は日が悪い、といさぎよくUターンしていたことだろう。
 しかしすでに、勢いで間近までやってきてしまっていて、ここで引き返せばおそらく相手は私に気が付き、「ああ、自分が居るから帰ったのだな」と思うことだろう。しかも私が座りたいベンチはおそらく三人は座れるような広さがあり、それにもかかわらず引き返すということは、それはまるで「あなたがいるのはいやです」と直接言わずとも行動ではっきり示すようなものだった。話したこともない相手にどう見られてしまうのか、どういう気にさせるか、それほど気にするのは自意識が過剰だろうとも思えるのだが、どうにもやはり、少し惑った。

 しかし私は軽薄だった。
 今一瞬の考えなどまるでなかったかのように足の方向を変えようとした。しかしそこで先客と眼があった。
 いよいよ私は引き返すことなどできなくなった。
 その男は、手元に本を広げていた。歳はおそらく私と変わらないか、しかし言われれば上、下どちらにも見えるような容姿だった。
 男は一瞬、私の方を見たと思ったが、次にはなにごともなかったかのように手元に視線を戻していた。
 先にも述べた通りで、この場所での夕刻の読書は私にとっての幸福であり、生活の潤いとなっていた。それなりに長くこの場所と付き合いをしてきた。ほとんど知られていない場所であるとは言ったが、実際、いつ訪れてもひとりであったかと言えばじつはそうではない。大きな公園での慣れない散歩で迷い込んできてしまった老夫婦があったこともあれば、ある時には遠足帰りで引率される幼稚園児たちがうるさかったこともある。しかし、この陽が照りすぎるような場所で、読書をしようとする人は今まであらわれなかったのだ。
 私は不安になった。万が一にも男がこの場所を気に入ってしまうようなことはないだろうか。一般論としてこの場所は公園のベンチなのだから、できるだけ自由な場所であるべきだとは思うし、実際にいまのところはそうであると思う。彼が毎日ここで本を読みたいと望んだ場合、私は彼を咎めることはできないだろう。
 しかし毎日のようにこの場所に足を運び、めったに人が訪れないと知っていたのも、西の方角の時計盤が眩しくて見えないということを知っていたのも私が先であるから、そのことはやんわりとでも行動で示すなりしておきたい。この場所を一方的に奪われてしまうことは避けたい……。私はこれらのことに折り合いがつき、且ついちばん平和的だと思える方法を採用することにした。
 事が決まればあとは進めるだけである。
 さっそく私はいつもの通り、木製のベンチに腰を下ろした。いつもの慣れた暖かさを脚の付け根に感じながら、ミネラルウォーターを身体のすぐ隣に置き、手元のバッグから少し厚みのあるハードカバーの本を取り出し、開く。まったくもっていつもの流れを実行してみせた。この流れが成功したのだから、この後も、慣れた通りのなんの心配も必要ない時間が流れるはずだった。
 しかし、しばらくしないうちに、今日という日はやはりいつもとは違う何かが私を覆っているのだろうと思わずにはいられなかった。私の手元の本には、ちょうど男の影が映りこんでいた。これではどこからが文字でどこからがいつも鳥の影が映ったりするようなインクのない部分なのかまったくわからない。私は平和的に進んでいるのはあくまで体面だけであり、やはり実際この場所は荒らされているのだという事実に気付きはじめた。
 斜陽がしっかりと照りつけて、時計台の時刻を正確に確認することはできなかった。本来であれば、手元の文字が見えなくなる頃である。しかし影でなく、それはあくまで陽の光が原因となるべきだ。

「場所を替わっていただけませんか」
 少々ためらったが、この貴重なときに文字を拾い上げることができないのが残念でならなかった。
 男はすこし、こちらを見た。そしてすぐに立ち上がり、「どうぞ」とひとこと喋った。
 この流れにあまりにそつがなかったものだから、今度はいやな気にさせたのではと私は少し不安になった。彼は私の一方的なわがままでとつぜん場所を替わることになったのだ。
「影で字が見えなかったんです」そう付け足してから、譲ってもらったばかりの場所に腰を下ろした。
 私は手元に目線を戻したとたんにいま一瞬の不安が嘘であったかのように、ようやくいつものこの場所へやってきたことを安心し、喜び、ページの最初の文字を目で確認した。やはり私は軽薄だと考えたところであった。
「ごめん」
 左耳の方から聴き慣れない低い声があったので、私は思わずそちらに顔をやった。男がこちらを見ていた。黄色にたくさん白を混ぜてしまったような、クリームと呼んでしまいたくなる色の髪は、夕陽のせいでときどき赤から黄色へ変化していき、そうしているうちにまた白っぽく見えたりした。空の向こう側で夕陽が赤く染まってゆくなか穏やかな表情は私に向けられていた。
慌てて眼を逸らした。
 私から再び平穏が遠ざかった気がした。急ぎ手元に目を戻したが、さきほど確認できたはずの文字がどこだったか忘れてしまい、もう一度探すはめになった。
 本に集中した。
 私はいつもと同じことをしているだけなのだ。なのに実際にはひとつも同じでない。場所を替わったおかげで字は陽の光に照らされ、いつものように拾い上げることも可能にはなっていたが、さきほどより一層難しいことになってしまった気がした。現に、何が書かれてあるか、まったくわからない。眼には映ってはいるはずなのだけれど、まったく、あたまに入ってこないのだ。
 周辺の景色はオレンジ色から鮮やかに赤く染まり始めた。なんだか身体が熱くなって、手は汗ばみ、落ち着かない。今、時計はどのくらいの時刻を指しているだろう。さきほどからどの程度の時間が経過したのだろう。
 とにかく、明日はいつも通りのこの場所であってほしい。そればかりを考えていた。

   ★

 いつもよりミネラルウォーターの減りが早かった。ふだんは本を読み始めてから開封するのだが、今日は喉が渇いて仕方がなかったから、後のことなどまったく気に掛けずに飲んでしまった。
 人が何人も並んで通れるほど広いコンクリートの道を、ひとりで歩く。
 私は昨日と同じくベンチの方角は確認せずに、足元だけを見て歩をすすめた。
樹の影は私に追いつくでも追い越すでもなく動いていた。実際は私が動いているから眼の前にあった影からどんどん後ろへ流れていく。とくべつ影踏みをせずともベンチには辿りつくことができるのだと、私はそのとき、いままでまったく知らなかったことのように気付いた。

 彼はいた。
 昨日もそうであったが、彼の服は白が基調となるような色の服を着ているせいで、実際は白に見えなかった。この場所に来るからには夕陽との調和を考えなければえらく悩んだコーディネートも台無しになってしまうことを私は既に知っていた。彼も今後ここに通うのならば、それも考慮した上で白を着て来なければならない、となんとなく考えた。

 彼は昨日と同じところ、つまり、私が入れ替えをしてもらうより前の、陽のよく当たる、私にとっての特等席に座っていた。
 陽の光は彼の読んでいる本にちょうどよく差し込んでいた。私はうらやましく思いながら、彼の目の前に立ち見下ろすような恰好になった。
 彼は私を見上げた。
しかし、まるで知らん振りをするみたいに目線を手元に戻した。

 私はそれなりのショックを受けた。そしてひとことふたこと会話したことのある程度の男性に少し気を許しそうになっていた事実をさっそく反省しはじめた。時刻と場所と読書する空間を共有しただけで人はこれほど簡単に他人の存在を認められるものなのかと驚きながら、しかし、だったらなぜ同じくこの人もそうではないのかと当たってしまいたくなるような心境だった。

 もうほとんど空っぽのペットボトルの形を手で確認し、私は身体を冷やすことにつとめた。彼はもうとっくにこの場所の主だと言わんばかりの態度であったが、私だっていつも通り読書を実行したいならば、昨日と同じことを乗り越えなければならない。

「場所を替わっていただけませんか」
 彼はまた、私の方を見たかと思えば、いぶかしげな表情を見せた。陽のせいで彼の眼の瞳孔やら虹彩まではっきり見えた。まるで昔からの友人につらくあたっているかのように錯覚させられたが、私は気持ちを厳しくした。
 彼は私の手元に目をやり、本があるのを確認した。そして立ち上がり、「どうぞ」と言った。何だかこの人はほんとうに冷たい。
 私は腰を下ろした。
 なんだかより一層、喉が渇いてきた。ミネラルウォーターを残しておけば良かったと後悔した。
「頭いいね」
 聴き覚えのある声に話しかけられた。しかしよく意味がわからない。
「なぜですか?」
 私のなんの捻りもない質問に、彼はすこしの間を置いてから、私の眼を見て答えた。
「こちらに座ると、ちょうど僕の背が影になって、文字が見えなくなるだろうから」
 私は返答に困った。昨日すでにあったことを前提とするならば今の言葉の意味はよくわからない。しかし、私の聴き違いでなければ、おそらくこの人は、文字が見えなくなるのが先に予想できるなんて頭いいね、と言ったのだと思う。
 もしかして彼は私のことを覚えていないのだろうか。
 私がこの場所にとくべつ執着があるからやたらと意識してしまっていたが、この人にとっては、たまたま良い場所を見つけたから読書しておこうという感覚なのかもしれない。そして同じ読書をする人間には興味などなく、ほんとうに本が好きでただ黙って本が読みたいだけかもしれない。
 しかしそれならやっと冷えた状態で成り立ち始めた関係にわざわざ声を掛けたりするだろうか。
 これが何年も前の話をしているというのならわからないでもないが、ほんの二十四時間程度さかのぼっただけの話である。私ならば彼の立場であってもやはり相手を忘れたりはしないだろう。しかしその考えすらも私の自意識が過剰なのだろうか。それともほんとうに彼は覚えていないとでもいうのだろうか。
 木製のベンチはとても暖かかったが、今日に限ってはこの場所に頼るのは危ないことのように思えた。樹の影が風と一緒に動き、地面はオレンジ色から赤く染まっていく。
 私は自分の感覚に自信が持てなくなっていた。そして、この目の前の人物に気味の悪さを感じはじめた。
 私は本の表紙をひらくことすら忘れていた。この得体の知れない人物のことで頭がいっぱいになり、何を考えることも難しくなっていた。私がいまできることは、この場所から一刻も早く立ち去ることだ。

「顔色が悪いですが、大丈夫ですか」
 相変わらず西の方角の時計盤は眩しくて見えない。しかしはっきり見えたのは、赤い光の中でにやりと笑う彼の顔で、私はやはりミネラルウォーターを残しておくべきだったとあらためて後悔した。

<了>
< 2014年1月 CRUNCH MAGAZINE 寄稿 >