第三回ミソジニー勉強会がおわりました。

去る一月十一日にミソジニーの勉強会をぶじに終えることができたことを報告させていただきます。

 参加者は私を含めて九人(女性六人、男性三人)で、おもったより人数が多くなったために、今回は京都市内の会議室を借りました。

前回と同じように「当事者研究」という言葉は引用せず、今回からは、【ワークショップ】という言葉を使いました。また、「フェミニズム」という用語ではなく、あくまで【ミソジニー】の勉強会とさせてもらっていました。

ふだん生活をしていると、実際のところ他者はどう感じているのだろうというのがわからなくなることがあります。女性も精神的に自律して生きていくほうが良いと私はおもっているが皆そうおもっているのではないのでは? ……実際に話してみて結論するのとかってにあたまのなかで考えて放置しておくのとでは大きな差があります。

違うのなら違うで早めに知って、それに合った対処を自分に対しても他者に対しても社会に対してもしていくほうがいいと考えています。

今回も、前回と同じように、基本は「しゃべらない会」として、ふだんから身体化されてしまっている動作……、たとえば人の話をきいていますよということをその場で示すためのよけいな相槌や、いつのまにかイニシアチブを握ってしまうスムーズな会話などをやめてもらう目的で工夫をしました。

折り紙を用意し、その紙に自身の感情や感覚を書いてもらいました。書くことを優先し、また、書き出した内容を共有するかどうかは本人次第とし、それは共有が目的でなくあくまでじぶんが「ミソジニー」をはらんでいるかの点検、自立したい女性を抑圧する側にまわっている可能性はないだろうかということを検討してもらうことを目的としました。

他の人のことを掲載することは避けたいので、私自身が感じたことを話しますが、皆が「抑圧されている」という感覚をもっているわけではないのだなということを知れてよかったです。ミソジニーにおける抑圧の度合いは生きた年代にもよるし環境にもよるのだと実感することができました。(知ってはいたが、実感することがやはり大事。)

ふだん相談をきく仕事をしていると、見ている属性が多数派の世界であると感じやすいものですが、かならずしもそうではなというのを知ることそして定期的に実感するというのは大事なことだとおもいます。

すでに終わった話だという意見もきくことができましたし、個人のレベルではすでにフェミニズムが必要でない人もいるのかもしれません。

しかしたとえそれが十年前にすでにアカデミアでは終わった議論であったとしても、いまだに市井の人にはほとんど届いていないし実際は問題としては残り続けているので、そこへ届けるのはその場所にかかわっている各々の在野の人間がやっていくしかないのだろうとおもいます。

今回はこだわったのは、参加者が「女性のほうが多くなること」。また、これは何かにつけ私がずっとこだわっている裏テーマでもあるのですがアカデミアに現在在籍していない人メインでやりたい。この二つは今後も私のなかでこだわりつづけることになると思います。おなじ属性の人間ばかりがあつまる権威性のある場所というのはむかしからほんとうに居心地がわるくてどうしようもないので。

三度目ともなると継続していける予感を感じたし感慨深いものがあります。来て協力してくださった皆様、ほんとうにどうもありがとうございました。

ファシリテーター:るま

主催:rminor(亜弥女)

参考文献:

『女ぎらい』上野千鶴子著

『私たちにはことばが必要だ』イ・ミンギョン著(翻訳 すんみ/小山内園子)

『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』ケイト・マン著(翻訳 小川芳範)